--雑談・塾長のつぶやき--                                                                                                                                            学友舎高崎(学友舎 lab)     
手をうちながら待つこと(助言するには私も変わらなくては)   2010年12月31日




この題目を書き込んだ時は、学習指導面でせかされる事が多く、「私は生徒の心を仕向けられる神ではありません」という思いがつのっていました。
また、高崎に顕著な、少年・少女スポーツへの熱狂と学習面のフォローについて、苛立っていました。



私自身は父から少年スポーツをさせられました。小学生の時、高崎に住んでいましたが、12月クリスマス過ぎから4月春休みまで、休祭日は原則すべてスキーに連れて行かれました。
朝泣いて嫌だと言おうが、電車の中で(当時スキーは電車で行きました)毎回酔って吐こうが連れて行かれました。


おかげさまで小5の時には大人がすることは一通りできて、高崎の小学校が平日休校の日に越後中里で滑っていたら、「お前だれんちの子だ、学校サボってスキーしやがって」、「僕は高崎から来ました」、「うそ言うな、町場のがきがそんなに滑れるか」と言われて、不良小学生としてパトロールセンターに拉致されるところを父に助けられました。


中学になると大人に混ざってスキー教室に入り、フレンチだイタリアンだと毎年変わる流行の真似をさせられました。「去年は沈み込んで送り出せと言ってたくせに、今年は立ち上がって抜重ですか」と、中学生にはめちゃくちゃな指導に思えました。


高校でラグビー部に入り、大腿筋を断裂して走れなくなり、スキーもこれ幸いに10年間しませんでした。この経験から、スポーツで人生を有利に運ぼうと言う発想に、嫌悪感を超えたものを抱くようになりました。



そして結婚して長男が生まれました。自分であんなに嫌がっていたのに、3歳になる前からスキー場に連れて行きました。長男とはありがたいもので、次男以下は「行かない」と言って付いてこない所を、車の中で酔いながらも父親に付き合いました。


しかし思うようには上手になりません。塾という仕事がら、本人の適性に関係なく、親好みのスポーツをさせられている子供達を見聞きしていた私は、息子たちを、私の指導で私より上手にすることは放棄しました。


何より私が子供のころとは道具と技術が違います。10年ほど前に、スキー板は、それまでのものより数十センチ短く幅が広い「カービング・スキー」に変わりました。
息子たちはショートカービングの、スラロームタイプをレンタルします。素材と設計はナノ工学の賜物です。私と言えば、篠(しの)と皮のストックにスチールエッジ無しの木板スキーでした。氷河時代からの遺物です。


たしかに今のカービングスキーのようなタイプは30年前もありました。少数派で、エラン・カザマ・ニシザワあたりが出していました。ELAN ski の Uniline-turning systemなど。私はそのタイプが好きでした。


しかし、当時カービングする(carve雪面を切り裂く)ためには相当な力で踏み込みました。それで教えると息子たちのスキーはちぐはぐな動きをしました。



仕方なく、また、スキー場の生きる化石で終わりたくはありません。ショートカービングの代名詞だった、Atomicのスラローム・カービングスキー(SL11M最終型)を買い込み、どんなもんだか練習を始めました。

とにかくやりやすい、高速でないとできなかった動きが低速でもできる。40センチ長い昔の大回転スキーよりスピードに耐える。昔の技術も簡単にできる。できないのは、傾けずに踏み込んだカービングだけ。

何だこれは、息子たちはこんなのに乗っているのか、と感嘆しました。


しかし教えるとなると、どうしたらいいか分かりませんでした。小学生の時からからしてきた動きを、思いつく限りすべてやり直してみても分かりません。

たまたま録画した、ナショナルチーム皆川健太郎選手の滑りをスローで延々1シーズン見ました。しかし分からない。外人コーチが、「Kentaro, upper body !upper body ・・・・」と無線で指示していましたが、分かりません。


おまけに私の滑りもなんだか訳が分からなくなり、長男には「父さんの滑りでいいじゃないか、何で他人の滑りを気にするんだ」と慰められ、妻には「もう歳で体が動いていない、息子のような世代と張り合うのはやめなさい」と言われました。



しかしくやしい。でも分からない。できないどころかわからない。しかし自分が知っているこの40年の延長上にあるはずだ。私は40年間勘違いしていたと言うのか。悔しいがそれもありうる。いわゆる基礎スキーの滑りは、小学生の頃から性に合わないので無視しました。


次の年に、長男が買ってきたスキー雑誌に付いていたCDに、オーストリアのデモンストレーター、リッチャード・ベルガーが入っていました。何気なく期待もせず見てみると、なるほどと思わされました。奇をてらわずに本質をついてきます。さすが国際的デモンストレーター、塾でも参考にしなくては、でした。



つまり結局、ターン最終面で、外足の踏み込みを抜いて、重力に引かれる方向に加速度方向に合わせて、体全体で落ちていくだけ。部屋でいすにもたれかかってシミュレイトすると、付随的にエッジは切り替わっていました。
早速スキー場で試すと、なるほどこれがワールドカップ選手が皆口にする「後ろでターンする」と言うことか、と10年を経て開眼しました。


「筋力で蹴るのでなく重力を使って移動する」、武道の本でよく目にしたことでした。後は自分が小学校からしてきた動きを、すべて重力方向に落ちると言う動きのまわりにまとめて、ここ10年来の戸惑いが一応解消しました。


10年ぶりに自分を取り戻しました。小学生の時スチールエッジなし木板スキーで、紫紺のアイスバーンを格好つける余裕も無く、放物線を描いて落ちていった、40年も過去の感覚がよみがえりました。



それから長男に助言すると、今までになく彼は納得しました。言う事をききます。こちらも見かけの状況に合わせた動きにとらわれなくなったので、次男たちの動きも瑣末なことを気にせず、おおらかに見ているようになりました。

息子たちは、私とは違う道筋で滑れるようになっていきます。



手をうちながら待つとは自分が変わることも含まれる、と思わされたスキー体験でした。今までの自分と新しい未知の世界に折り合いをつけるプロセスを考えさせられました。


ショート・カービングターンは、大回転のそれより落ちていく方向が45度くらい谷方向でした。
旧タイプのスキー板で、意図的にそうしたことはありませんでした。アイスバーンで偶発的にそうなったことはあります。旧タイプのスラロームスキーは山側へ直進し、私は谷側へ振り子前方転倒して、顔面出血し肋骨にひびが入りました。

私には、してはいけない動きでした。30年近く無意識の安全装置がかけてありました。わからなかったはずです。



息子たちは、私とは違うプロセスで世界とかかわっていきます。助言するには私も変わらなくてはいけません。塾の仕事に何か関係があるかと言われますと、あります。


今年度は、小学校・中学校だけでなく、高校内容の研修も進めています。今までは、高校生が分からないところを指導する・説明すると言うスタンスでした。今年は、高校3年生と一緒に、テキストも書店で広く目を通し、高校生とともに、私も塾で使用しているテキストを全部してみています。



ノーマルスキーからカービングに履き替えて、今まで食わず嫌いしていたオーストリア・デモンストレーターの滑りを分析した時のような変化が、塾の指導にも現れつつあります。


個人経営で少人数塾を開いていると、年度により生徒数に差があります。今年は残念ながら「少人数」なので、研修に力を入れます。まったく一昔前の「晴耕雨読」のようです。塾の壁に掛かっている、片岡鶴太郎のカエルが、「雨じゃあ 仕様がねえや」と笑っています。



話題がまったくそれてしまいました。少年スポーツはすばらしいし、生涯の糧にもなると思います。
しかし、そこに、勉強しないで楽しく要領よく過ごそうという思いが入ってきたら、やめたほうがいいと思います。苦手なことから逃げたい気持ちがエリート意識の仮面を被ると、人と人生は小さくゆがみます。